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ブライアンを見送って扉の方を向いていたマライヒが、くるりと振りかえる。

 亜麻色の巻き毛が揺れて、花の香りがまずいコーヒーの匂いを消した。デスクに手をつき、上半身を乗り上げてわたしの顔をのぞき込む。

「疲れちゃった?」

「・・・いや」

 端切れ悪く答えたわたしの頬にくちづけを寄越しながら、不埒なアシスタントは、

「うそつき」

と、囁く。

「嘘などつかん」

「そう?」

 じゃあこれはなあに? と、今度は眉間にキスを落とされる。無意識のうちに皺を寄せていたらしい。

「コーヒーが不味かったんだ」

 言い訳じみた言葉だと、自分でも思う。

 マライヒをアシスタントにして数ヶ月。この部屋に、彼と二人きりで居ることが日常になりすぎていたのだろう。あまり親しくない第三者を交えての、しかも今現在わたしの頭を悩ませているルーキー・テロリスト≠フターゲットについての話、は確かに疲労を増したかも知れない。

しかし、あえてマライヒに伝えて心配させる程のことではない。今こうしてこの子と二人で居るだけで、自然と緊張や疲労が体から抜けて行くのを感じているのだから。

この子に会う前、数ヶ月前までは、一人きりでなければ寛ぎきれなかったというのに、全く人間というものは驚くほどに容易く変わる。

 体を引こうとした彼を捕まえて、キスをする。

 頭と腰を抱えてデスクを乗り越えさせて膝の上に抱こうとして、未練がましく泥水コーヒーの入った紙コップを手にしていたことに気付く。その隙にキスからするりと抜け出したマライヒが、私の手からそれをさらった。

「美味しいの、煎れてくるね」

 部屋にあるミニキッチンへ、ほっそりとした背を見せて軽やかに歩いて行く。

豪華に揺れる量の多い巻き毛、対照的に華奢な背中と腰、ショートパンツからすらりと伸びる腿、白いソックスをまとった小さな膝裏とふくらはぎ、そしてヒールの高いブーツを履いた細い足首と足。体のどの部分の感触も思い起こせる自分に苦笑し、それでも後ろ姿すら愛らしい子に触れたくて堪らず、八つ当たりのように憎らしく思った。

わたしが紙コップさえ握っていなければ、今頃膝の上で甘い声を上げていた、可愛らしい少年。いっそ、可愛らしいだけの少年であってくれたなら。いや、そうでなくて良かったのだ、勿論。

「クリスマスブレンドとやらはどうした?」

「だから、今煎れてるってば」

 私の八つ当たりを含んだ憎まれ口にクスクスと笑いながら、マライヒが答えを寄越す。

「どうしてさっきはそれを煎れてこなかった」

 旨いコーヒーの後の不味いコーヒーは、実際の味を遙かに超えて不味い。

「だって、特別なんだもの」

「うん?」

 葉巻に火を付けて香りを楽しみつつ煙を吸い込む。そうでもしなれければ、いつまでも花の香りを探してしまいそうだった。

 コーヒーを煎れ始めたのだろう、濃厚な香りが一瞬ふわりと香る。

 

 マライヒと共に過ごす時間が増えるごとにわたしの周りには様々な匂いがあふれるようになった。毎朝彼が飲むミルクティーの甘い香り、部屋に絶やさず飾りたがる花の芳香、日々手を変え品を変えわたしに勧める食事の匂い、晴れた日の休日にベランダから風にとってやってくる洗濯洗剤の香り、そしてあの子の好む花の香りの香水。そのどれもが、色鮮やかにわたしに愛を語りかけてくる。「バンコラン、愛してる」と、繰り返し。そして驚くことに、わたしはそれを疎ましく思うどころか、喜んでいるのだ。

 

「お待たせ」

 先程よりよりいっそう豊かなコーヒーの香りをまとい、マライヒが戻ってくる。手にはわたしのものと彼のもの、二つのカップ。

「はい」

と、差し出されたカップを受け取り、口に運ぶ。クリスマスブレンド。やはり、コーヒーにしては甘い香りがする。苦みも少ない。その分、芳醇な味わいが口中に広がる。

「美味しい?」

「ああ」

 正雲泥の差だ。しつこいようだが、本部のサーバーから出てくる黒い水と同じ種類の飲み物とは、とても思われない。

「よかった」

 マライヒが、のど元をくすぐられて満足した猫のようにのびのびと笑う。

「これは、あなたに飲んで欲しくて買ってきたものだから」

「ブライアンには煎れてやらなかったのか」

「うん」

 悪戯な笑み。上目遣いにわたしを見上げてくる瞳が、きらりと輝く。わたしのために、二人で飲むためだけ買ってきた、特別なコーヒー。職場においてそんなことを企むのは公私混同かも知れないが、それこそ早朝から深夜まで働きづめなのだ。少しぐらいは、ささやかな楽しみも許されるだろう。

「悪い子だ」

 答えながら、マライヒの微笑に同様の微笑を返した。

 

 

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